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〈チェシュメとイスタンブールへ〉
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=新進気鋭のレヴェント・アルトック教授に会う旅= |
10月4日、僕は関西空港を発ちフランクフルトへ向かった。行く先はトルコ イズミールであるが直接のフライトがなく、フランクフルトで一泊した。翌朝フランクフルトからミュンヘン経由でイズミールにたどり着いたのは予定の午後3時ごろであった。 迎えの人がいるだろうとゆっくり空港を出たが、それらしき人がいないのである。実は出発前のスケジュールがタイトすぎて少しのどを痛めて、関西空港から引き返したいと思ったほどだったので、まことに不十分な旅の準備状況だった。悪いことに、後で分かったのだが旅行社のスケジュールは直前に変更されていて、フランクフルトからミュンヘンへのフライトはアルトックさんに知らせたスケジュールとは違っていたのだった。 空港の外に1時間ほど出て待ったが誰もいなくなったので、会議の最高責任者の方の所在の載ったプログラムを見ながら電話をしたが不在だった。会議は今日が初日だから居るはずがないのである。困ったと思ったが、ここは落ち着いて、あせらず対応しようと考えた。空港の中にinformationを見つけたのでほっとして、女性職員の方に事情を話し、イズミール工科大学のアルトック教授を探してもらった。程なく彼から電話があり、誰か迎えに行くのでそこで待っているように指示された。 会議場はチェシュメのシェラトンホテルということであった。空港から車で小1時間はかかった。午後5時40分ごろにホテルに着き、すぐに着替えてロビーに降りると6時出発のバスに皆さんが乗り始めるところであった。間一髪で間に合った。 後で地図を見て気づいたが、チェシュメはイズミールから遠く岬の先端でエーゲ海に面した有名な保養地であった。国際会議はアルトックさんの友人で事務局長のポーラットさんが僕を招待してくれたのだった。僕がアルトックさんを5月の退官記念パーティーにお呼びしたのでその返礼ということのようであった。 トルコは世界のホウ素の70%を産出するらしい。今回会議の名称はMineral Processing Symposiumで僕は石炭灰利用技術のわが国の現状を話すつもりだった。これは僕の専門ではないので石炭利用総合センターの原さんや原田さんに大変お世話になった。シェラトンホテルの6階の僕の部屋からは美しいエーゲ海が一望できる。ローケーションは最高である。 6,7日の会議は熱心に聴講した。イスラエルやアメリカ、ドイツ、南アフリカ、中国、ブルガリアなどの人が多かった。ブラジルからも参加者があった。もちろん国内のトルコ人が多いのだが結構活発な議論が交わされた。 最終日の7日には僕の発表前にアルトックさんのイズミール工科大学を彼の車に乗せてもらって訪ねた。この大学はイズミールの町を見下ろす高台に建っており、まさに建築が始まったばかりの新しい大学であった。彼の研究室には立派な装置が運び込まれており十分最先端の研究ができる環境がすでに整えられているようであった。実際彼の研究は欧米の一流誌に掲載されているのである。学生は10人でそのうち9人が女子学生である。アルトックさんが男前だから女性に人気があるのだろうと推測した。これはわが国も同じである。彼女たちの研究発表を聞かせてもらった。その後大学を後にして第一次大戦後ギリシャが攻め込んだイズミールの激戦地の荒野を走りぬけながら彼から歴史をつかの間ながら教えてもらった。 最後のお別れパーティーの席でイスタンブール工科大学のUnaru教授が僕に会議後どうするのかと聞いてきた。彼はピッツバーグ石炭会議の国際プログラム委員で知り合いなのであった。イスタンブールに行くというと何時のフライトかと聞く。偶然にも彼の計画しているグループのイスタンブール行きのフライトと一緒であることが分かり、彼は僕にそれじゃわれわれのグループに招待しようといってくれた。 ここから僕の厚かましい旅が始まるのだが、はじめにも書いたように、イスタンブールでの予定は事前に計画できなかったのである。今回何故無理をしてトルコの学会に参加したのかについては少し語る必要がある。ひとつはアルトックさんからの誘いを断りたくなかったこと。もうひとつは長い間の学会参加の最後にイスタンブールを訪ねたかったからである。最後というのは、僕はすでに退官したからなのである。 イスタンブールは想像したとおり要害の地であり、ボスポラス海峡やマルマラ海は見事な歴史的景色を保持しており、さすがに東ローマ帝国の皇帝が選んだ場所だと感じた。僕は世界史を学ばなかったが、世界を旅するうちにいつとはなしに、イスタンブールを見ずして死ねないと思ったのである。これは正しい判断だった。僕の泊まったホテルはマルマラホテルで日本人客が多く海の近くであった。8日の夜はKarvan Sarayというレストランでベリーダンスのショウをみた。グループの人たちは奥さんを連れていたから全員で25名近くだった。レストランは満員で、120人ぐらいいただろうか。 翌日はイスタンブールの町をバスで見学し、第一と第二のボスポラス大橋を渡った。トプカプ宮殿を見学しブルーモスクも見学した。深い歴史に感銘を受けた。わずか2日の滞在であったけれど楽しい2日だった。 2日目の夕方からボスポラス海峡を遡上する船の上で悠久の海を眺め、沈む夕日を眺め、はるか向こうに広がるマルマラ海を眺めながら、改めて歴史を学ばなければと思った。東ローマ帝国の始まりと滅亡、オスマントルコの興隆、第一次大戦後のイズミール、そしてイスタンブール、それからイスラーム教の世界などわれわれのキリスト教的思考への偏りなど深く省察すべき課題が多いと感じた。それから海峡北部の高みに上って黒海を見たかったがその時間はなかった。またいつかこの地を訪ねようと思った。
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〈2004〉 |
2004年5月8日(土) 退官記念晩餐会 大阪リーガロイヤルホテル 山楽の間 午後5時開始 開会の挨拶 記念事業会実行委員長 黒沢英夫教授、祝辞 大阪ガス取締役社長 芝野博文氏、大阪府立産業技術総合研究所所長 松田治和名誉教授、乾杯 田村英雄名誉教授、祝辞 関西電力副社長 岸田哲二氏、大阪ガス副社長 松村雄次氏、祝辞 北陸先端科学技術大学院大学 三宅幹夫教授、米国ペンシルバニア州立大学 宋春山教授、三菱商事(株)事業開発部マネジャー 松林賢司氏、閉会の挨拶 物質・生命工学化学系専攻長 福住俊一教授(司会 茶谷直人教授、桑畑進教授)参加者 235名
石炭利用総合センター(CCUJ)の基盤技術研究会メンバー、エネルギー資源学会常務理事、エネルギー資源学会誌編集委員長、日エネルギー学会関西支部や石油学会関西支部幹事、学振148委員会運営委員、全国石油協会大阪試験センター顧問、石油学会代議員、日本エネルギー学会理事などで結構忙しい毎日を過ごす。
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〈2005〉 |
2005年4月5日(火)から大阪ガス株式会社 社長 芝野博文氏と北京、上海へ。芝野氏 清華大学で講演 4月9日(土) 帰国。
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〈2006〉 |
2006年4月17日(月)から薬科大学での講義を開始 有機薬化学IIおよび薬品製造化学の二教科 4時間 ChemDrawの習得が必須でこれに取り組む。プリントの準備、前期、後期試験の作成。薬剤師国家試験と講義の整合性を考察。
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〈2007〉 |
2007年4月16日(月)授業スタート 有機薬化学IIと薬品製造化学の二科目担当 4月5日(木)神鋼 青方部長に石炭火力発電所をトルコからのGSE派遣団に見学させてもらう。
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〈2008〉 |
5月より写真教室に通い、写真の基本操作を学ぶ。これまで多忙のため実行できなかった計画を実施し始める。 4月長岡京 錦水亭を訪ねる。4月京都 井雪で石油学会関係の方々と清遊。瀬戸内寂聴の講演会に参加。 5月 混声合唱を始める。パリ東郊外地区GSE(Group Study Exchange)派遣団選考会。スリランカへのマッチンググラント(寄金活動)を開始。 7月30日(水)学審148委員会で研究発表。9月上高地帝国ホテル宿泊。9月28日(土)家内とピッツバーグ石炭会議へ出席。帰路 ワシントン、ニューヨークを経て帰国。
フランス・パリ郊外への旅
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〈2009〉 |
2009年4月2日(木)ラジオ大阪でGSE活動を収録。4月16日(木)夕方19時5分から15分まで放送。 6月24日(水)スリランカへシンガポール経由で行く。マフィンダ社会福祉センターへIT機器の納入設置を確認。このプロジェクトはこれから最終報告書作成予定。 6月末 GSE最終報告書作成(21頁にわたる添付書類は10か所近くの企業訪問を含みSustainable Developmentについての記述も多い)。 もしご入用ならm-nomura[at]muf.biglobe.ne.jpへお申し込みください。
PROJECT 111 野村正勝
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